SSブログ

日本語教育に転身して [いろんなことから考える]

この世界、最近は学部から日本語教育専攻という方もどんどん増えてはいますが、それでもまだ「他の分野からの転身」という方が多いように思います。

かく言う私も別の分野で大学院に行っていて(ドイツ語と歴史です)、その後しばらくしてから思い切って足を踏み入れた世界が日本語教育。転身組の一人です。

その状態、つまり、

 ・別の世界にいた。しかもそこで(無謀にも)がんばってみようとあがいていた。
 ・長い学生生活にげんなりしていたので、シゴトをしたかった(日本語教育との決定的な違いは、歴史には<現場>に相当するものがないということ)。
 ・そこから入ったのが日本語教育なので、最初からシゴトだった。

といういくつかの経験が、やはり今の自分にそれなりに影響を与えているような気がします。

何と言うか日本語教育がとにかくシゴトなので、学会などに自分が出る場合、アカデミックなもの<以外>を求めている部分もあるとか。
例えばそれは、人とのつながりだったり、ネットワークだったり、非常にはっきりとした「明日実践してみたい」という気持ちを現場の先生に持ってもらえたら、という部分。
そう思うのは、もちろん今の立場とも関わりがあるのでしょうね。

じゃ、アカデミックな面に興味がないかというとそういうわけではなくて、自分自身があの、非常に冷徹で研ぎ澄まされた「歴史論文」というものと格闘していた経緯があるだけに、今自分を支えている現場型日本語教育の、その背景の理論や分析に関わっている人には徹底してそれを極めてもらいたいし、こちらからも敬意を払っていきたい、謙虚に向かい合っていきたいと思っています。
だからこそ、研究性の高さを狙ったタイプの論文の中に、非常に主観的な記述や<ワタシ>度の高いものを見てしまうと、方法論の違いはあるのでしょうが、「そりゃないよなあ」と、思うこともたまにあります。

一方で、妙に早くから「分析」とか「理論」とか「緻密さ」とか「批判」といった世界にどっぷり入ったためか、緻密だったり分析力があることはごくごく当たり前で、もちろんスバラシイことには違いないけれど、世界を変える骨組みという程までには愛していない。
とにかくそれは、ごくごく平凡で当たり前のものなんじゃないかな、と感じている部分もある。
当たり前のものなだけに、必要でないと判断した場合は、逆にぽこんと脇にどけられるような気もしています。

まあ、それやこれやで気負いなくシンポジウムなどに出てしまう自分がいるわけですが、振り返ってみていいことなのかどうなのか。
最近は、もうちょっと勉強してみなければなと思っています。今度は、日本語教育の視点から。

他の、似たような背景の方はどうなのでしょうか。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

神様の<カミ>は・・・CHICAGO ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。