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古いファイル [いろんなことから考える]

引っ越すたびに持って移動しているファイルがいくつかあります。

手書きの教案の束だったり、自作のプリント教材だったり、はたまた絵カードだったりしますが、その中に「某教科書の課ごとにプリント整理をしたファイル」があります。
新人の時に作成してそのまま持ち歩いていたのですが、今回久しぶりに開いてみて、あれ、と思ってしまいました。
うーん・・・今だったらこれはもう必要ないな、と。

そのファイル、例えば教科書の14課に「~ています」の文型導入があったとしたら、自作の「~ています」を練習させるプリントに加えて、さまざまな教材からコピーした「~ています」の練習問題が入れられているのですね。聴解あり、読解あり、ゲームあり、もちろん文法問題ありと、その内容は非常に雑多。
そして、ぱっと開けば何となく90分は授業ができるようになっている。

うーん、これってどうだろう。
新人の時には、確かにそういうものを必要としていたわけだ、けど。
違うな、と思ったのは、文型中心だからという理由ではありません。何と言うか、寄せ集め感なのですね。

もちろんそれを集めている過程で、「あ、こんな練習もある」「これは勉強になる」と思ったことも多々ありますし、絶対そういう経験も必要だったとは思うのですが、一方でこのままだと、単に「どう90分をやりすごすか」という状況に陥りかねない。
目の前にいる学習者を見たり、彼らに何ができるようになってほしいかを考えて総合的に授業を組み立てたり、という視点がない。
それから、教科書にはそれぞれ個性や方針があるはずなのだけれど、寄せ集めの切り張りだと、結局「いろんな文法パターンを練習させているものがいい」「問題が多いほうがいい」だけになってしまいかねない。会話や機能に力を入れた教材だとしても、その教材の本質を見極めることができず、ただ問題数だけで考えてしまいかねない。

多分、今ならそういうファイルをつくっても、違う形になると思います。
自作のプリントはちゃんと入れると思うけれど、他は違うかも。
あるいは、同じものをつくったとしても、視点や使い方が違うはず。
文法のドリルや口ならしは今でもするし、語彙習得の練習だってするけれど、90分、目の前にいる学習者それぞれに対して違ったものを提供しようとするし、ドリルもキューも全部自分で準備していくはず。だって、そのほうが絶対やりやすいから。
むしろ以前のやり方のほうが、「プリントできるだけたくさん作っておかなきゃ」「絵カードは」「レアリアは」と追われていて、自分の不安を埋めるために準備をしているような感じでした。

今のような視点ががっちり身についたのは、おそらくこの3年教材作成に携わってきたこと、そしてその教材を使ってのモデルクラスを担当してきたことがあると思います。モデルクラスの場合、他の教科書からのコピーや切り貼りなどをするわけにはいかないので、踏ん張って取り組んでいる間に、何かが身についてきたのではないかという気がします。

「初級の授業はレアリアや教材をたくさん持っていくのがいいと言われるけれど、ペン一本だけ持って行って、そこで授業を展開させられるかどうかも日本語教師の力だ」
という言葉を聞いたことがあります。
確かに、与えていったプリントを無暗とやるのではなく、その場の学習者の反応を見ながらぱっと練習を切り替えたり、プリントがなければノートに書いてもらったり、レアリアがなくてもジェスチャーや説明ができたりする力。
誤解がないように言えば、別にプリントを否定しているというわけではなくて、そのプリントが本当にその時のその学習者に必要なものか、あるいはまた、将来的に見て絶対に必要と感じているかといった、取捨選択していく教師側の力。

まだまだ及びませんが、ちょっとずつちょっとずつ、その場所に近づいていけたらと思っています。
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Honigon3D

日本語教育というのは、決して「日本語の言葉の意味と使い方」だけを教えるのではないんじゃないかという気もしますけどね。

例えばレアリアだって、言葉の意味だけを理解させるならジェスチャーでも説明でもいいわけですが、例えば言語外現実の違いを肌で感じさせるとか、そこから日本文化の背景について思いをめぐらすきっかけとなるとか、単純にモチベーションを刺激するとか、そういうレアリアの持つ力、みたいなのは、ペン一本だけからは決して得られないんじゃないかなあ、とか思ったり。

いずれにせよ、任期満了お疲れ様でした。新しい赴任先でまた頑張ってください~。
by Honigon3D (2011-05-27 06:59) 

juni_sachika

>Honigon3Dさま、

コメントありがとうございます。
そうですね、ここだと上手く書ききれない部分があるのですが、言語機能とかレアリアとかいう点よりも、要は「寄せ集め感」「広げきる力があるかどうか」ということなのですね。
そういう状況は実際よく見聞きするし、自分でも教師研修の課題のひとつかなと思っていたところに、ファイル整理をしていて昔の自分の似たような部分を思い出し、ちょっとひやっとした次第です。

「ペン一本」という例は、かつて(と言ってもつい数年前)非常に物に不自由した場所にいた中で、それでも授業を展開させたいというのがありました。
それは言語面に限らず、教師の説明や様子や雰囲気などから学習者が想像をふくらませたり、「将来それを見てみたい」という気持ちをどう持ってもらえたらということです。
「レアリアが集められないから扱わない」という発想に万が一教師がなってしまったら(結構ありますよね)、時に非常にもったいない。
と、その時の気持ちを思い出しつつ書きました。ちょっと言葉足らずですが。

もちろん最近は「レアリアを集められない」ということはどんどん減っていますし、「集められない」じゃなくて、実は「集め方/示し方に不慣れ」というケースも多いのだろうなとは思います。

新しい赴任先ですか~。
まだ、こちらで嵐のように仕事にもみくちゃにされているのですが(苦笑)。
by juni_sachika (2011-05-27 07:41) 

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