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ブログ整理 [活動]

2008年から書いてきたこの日記、最後の半年を日本語教育ブログ(http://j-sachi-nihongo.blog.so-net.ne.jp/)に引っ越したり、いろいろいじってみたのですが、最終的にはハンガリー時代の記録は、この「ゆに・ハンガリー通信」でまとめることにしました。

最後の半年、妙に日本語教育の話題が増えているのはそういう理由です。

それまでの自分ではどうしようもないことに直面したり、大きな仕事の中でへたれそうになったり、でも何とかしようとあがいたり、ハンガリーの空や川や街並みの中にいることが好きだったり。
そんな日々のことです。

いつか思い出して、とても懐かしくなる日がきますように。

送別会 [活動]

17日の金曜日に、職場の人たちが開いてくれた送別会。
教材作成でお世話になった方、講座の先生方、研修や勉強会に足を運んでくださった方を中心に、最後にいろいろな方とお話することができました。

できたこと、できなかったこと、もっと長期に関われるならできたこと、自分の判断でしなかったことやレベルを現実路線に落としたこと、逆にとにかくどんどんぶつかっていったことなど、ふりかえればいろんな仕事を経験させていただきました。
イベント系や職場でのとりまとめの経験はあっとはいえ、教材作成やコンサル、機関の枠を超えたコーディネイトなどは、私自身の経験値がスタート時点で低かったので、動けるようになるまではずいぶん時間がかかったような気がします。
えーっと、何て言うか、初領域でいきなり中間管理職を経験してしまったような感じでしょうか???

ずっと一緒にお仕事ができた方には、動けるようになってからのいろいろを経験していただけたのですが(それでもまだまだの部分はあるわけで、今後の課題です・・・)、心残りは初期にだけご一緒した方。
申し訳なくも思うし、何かいつか形を変えて、そういった方にも還元できるような仕事がしていきたい。

なので、とりあえずは健康に気をつけて、<仕事>という視点から、もうちょっと日本語教育に関わっていこうと思っています。

本当に、ありがとうございました。

おわかれ [教室から]

期末テストと修了パーティーがまだ残っているけれど、今週は担当している一般講座の授業最終週。
受講生に、来週には日本に帰ることを伝えました。
先生たちには任期終了のことは言っていたけれど、受講生には今まで殆ど話していませんでした。

いろいろ大変なこともあった3年なのに、今日あいさつしていて、本当に素直に彼らに会えてよかったし、一緒に過ごせて幸せだったんだなあと思いました。
どちらかと言えば、教材作成や教師研修、コンサルテーションなど、先生方と接する機会の多い職場でしたが、先生方の向こうには学習者がいること、学習者にキラキラしていてもらいたくて皆がんばっているという気持ちを、特にこの一年は授業を通して思い出すことができました。

それから夜、ふだん全然担当していないクラスの受講生が、「記念に」とパーリンカとチョコレートを持って来てくれました。
私の帰国のこと、いったい誰に聞いたんだろう。

日本語が大好きで、でも不器用なクラスで、テストをやってもなかなか点数がとれなくて、「もうやめる」と意気消沈していたのを、「成績でやめる必要はないから」と担任の先生と一緒に説得した受講生でした。

多分、彼らに出会えたことが、私の中で「ヨーロッパの一般講座の意味」を考えるきっかけになったように思います。
社会人で、時間がとれなくて、あんまり器用じゃなくて、でも知的好奇心もあって日本語も大好き、クラスも大好きでとても仲良し。だけど、将来日本で働くわけでもないし、日本に行くという目的が確固としてあるわけでもない。

そんな彼らが、不器用ながらもゆっくりゆっくり勉強していき、他のクラスよりペースは遅いかもしれないけど、気がつくと彼らの中でとても上手になっている。
今日私が話す言葉も、そんなにスピードや語彙をコントロールしなくてもちゃんと聞きとれるようになっていた。3年前は想像もできなかった。

中国に続いて、一般講座担当になったのは今回が二回目。
機関は違えど、「また一般講座なんだ」という思いは何となくあったのですが、3年たっていろいろなことが違うし、それぞれの場所にそれぞれの面白さがあったというのを感じています。
何についてどう感じたかは、また帰国後にゆっくりふりかえられたらいいなあ。

残すところは、期末テストと修了パーティー。
あ、それから単発のWeb講座が金曜にあった。
えーと、それから教材作成の最後のとりまとめも残っている。うーん。

ギリギリまで忙しそうです。

日本語体験クラス② 終了 [教室から]

先週のことですが、第二回目日本語体験クラスが無事終了しました。
以前のブログにも書いたように、今回は予想以上にリピーターが中心で、しかもいずれは本格的に学習を開始したいという希望を持ってくれているようです。

それはそれで嬉しいことなのですが、気になるのは、二回目に参加しなかった人たちのこと。

もちろん日本語が好きになって、続けて申し込んでくれた人たちのことは嬉しいけれど、ここは日本語が必ずしも実利や生活に直結しない場所。
だから、最初から「一回だけ参加すること」も積極的に意義づけたクラスにしたいと思っていました。

確かに二回目は来なかった人たちもいるけれど、前回のクラスで勉強したことを、少しでも懐かしく思い出してくれたら嬉しい。
楽しかったという気持ちを持っていてくれたらそれも嬉しい。
せっかく「日本の文字」とか「日本の地理」なども学習項目に組み込んでいるのだから、言葉や表現は忘れても、その時見た写真とか教師の話などを、何かの時にふとふりかえってくれたら嬉しい。
いつか「もう一度日本語を勉強しよう」と思った時に、挫折感なく始めてくれたら嬉しい。
そして、もしも、もしも日本語を勉強しなかったとしても、日本やアジアのことに何となく興味を持って、美術展に足を運んだり、日本映画のDVDを手にとってくれたら嬉しい。

「やめてからも残るもの」はとても価値があるんじゃないかなというのが、最近思うことです。
やめることを奨励しているわけではないですし、もちろん続けてくれたら素晴らしいと思う。
でも、やめてしまって、彼らの存在が表から見えなくなったとしても(どんなに強制したって、どんなにいい授業を展開したって、だから絶対に誰もやめないというものではないので)、彼らの世界が見えない部分で豊かになっていってほしいし、その「見えない部分」にどうやって光を当てていくかとか、彼らの存在をどうやって前向きなものとして広げていくかとか、そんなことを最近よく考えます。

うーん、やっぱり質的研究。もう一回、ちょっと日本で勉強しよ。

「Deai」から10年 [教師研修と、その周辺]

Web活用法の研修の中で紹介された、国際文化フォーラムの「くりっくにっぽん」。

いい記事が多いなあ、日本人が読んでも面白いなあと思いつつ眺めていたのですが、そこで発見したのが「Deai」の若者たちの10年後の姿でした。

「Deai」は実在する7人の高校生たちの姿を伝えた教材。写真シートなどを入れたキットとホームページがあります。

「Deai」を知ったのは、多分2002年。
これからドイツに行くという時の派遣前研修の場でした。
所属先が中等教育機関ということもあって、実在の高校生を主役にしているということに強く関心がわきました。そして、「こんな教材があるんだ」「すごい」と、感動したのを覚えています。
あれからもう10年近く経つんですね。

彼らはどう生きてきて、どう変わっていくんだろう。
10年前にも「同年代の人たちはどんな生活を送っているんだろう」と思ってもらえる教材でしたが、今はそれに加えて、高校生たちが自分の将来に重ねてくれるかもしれない。

授業でどう使うか、という視点を超えて、純粋に読んでほしい、紹介したい。
そんな風に思いました。

研修 (Webの活用法) [教師研修と、その周辺]

今年度一回目の研修。(勉強会は別枠なのです)
授業でWebをどう活用していくか、ということでした。

今回の企画も講師も私ではないので、どんな話だったかはとりあえずここでは書きませんが、アシスタントとして参加しながら自分はどうWebを使っているだろう、と考えました。

授業の中でネットに接続したり、トピックをひろってきたり、あるいはニュースを見たりなど、いろいろ思い当たるところはありますが、ここ1年を振り返ってみると、去年は半年間、月1回の上級聴解を担当していたので、月1回という限られた時間を有効に使うためにも、Webの聴解教材から課題を出したり、「おすすめサイト」を毎回必ず授業で紹介するようにしたりもしていました。

また、3~4ヵ月に一回ペースで開講している体験コース(1回目2回目)では、興味を持ってどんどん自習を進めていったり、日本について知りたいという学習者のために、3回のコースの最後にその回のテーマに合ったWebサイトの紹介を組み入れています。

中間テストの日に、クラスによって余った時間でいろいろ活動や復習を入れてもらうようにしているのですが、私たちのクラスはペアの先生の発案で、「Webサイト紹介」を組み入れました。

自然発生的なものとしては、学習者とのSNSでの交流や、彼らが撮った写真を共有サイト経由で受け取ったり、というのは日常的に行っています。
そうだ、日本語ブログを作っている受講生たちにLang-8を教えたこともありました。

あと、来月にもひとつ企画があるのですが、それはまた今度。



さて、今回改めて感じたのは、Web学習の<軸>の部分です。

教師は何故Webを学習者に紹介しようとするのか。
もちろん、復習のためとか、文化理解を深めるためとか、試験対策とか、あるいは授業の中でどう活用するかとかいろいろあるのですが、最近思うのは、「自分で学ぶ」ということ。

そのことを、例えばe-learningのような完結したコースとしてとらえることも可能だけれど、それだけじゃなくて、教室に通っている学習者でも興味を持って家でどんどん開いてみたくなるような、あるいは自分で学習を進めてみたくなるような、そんなシカケを授業の中に組み込むことの大切さです。

で、実際に「そのサイトを彼らが見たかどうか」なのですが、ここは扱いが難しいと思っています。
「自分はこれだけ見た!」という気持ちを伝えたい中学生くらいの学習者なら、例えば宿題に組み込んでしまうことも効果があるのでしょうが、社会人ぐらいになってくると、必ずしもそうとは言えないような気がします。
ただ、社会人こそびっくりするほどWeb活用のストラテジーを持っていたりもするので、その経験を共有する機会をクラスにこっそり組み込みたい。
と同時に、そのことが、忙しくて見ていない学習者にプレッシャーを与えてしまうのは不本意なので、入れ方にやはり工夫が必要だと思っています。

いずれにしても、教師が学習者の「外で学ぶ力」を信じていないといけないんですよね。

日本語体験クラス ② [教室から]

この冬にスタートしてみた体験クラス
今回、二回目を開講しました。

・短い時間、気軽にその言語に触れられて
・若者達にあまり混じらなくてもよくて (若者は頭もまだやわらかいし時間も十分にあるが、こちらはそうはいかない)
・でも、ちゃんとそれなりの知識や勉強した気分は得られて
・仕事が忙しい時、覚えてきてなくても次に行くのが気が重くならないような、一回完結のクラスで
・本気でがっちり学習するコースに申し込んで後悔する前に、「自分が向いているかどうか」をちょっと試せる

というのがスタート時のイメージでした。

今回はリピーターが中心で、担当の先生に聞いてみると、「ひらがなは習っていないはずなのに、自分で勉強して何となく読めてるらしい」とか、「どうも将来的に続けたいらしい」という雰囲気のようです。

こうなると、同じ「一回完結」の意味も少し変わります。

一回目は、学習者の年齢も雰囲気も関心の強さもわからないので、「仕事が忙しい人が覚えてきてなくても次に行くのが気が重くならない」ことを意識し、様子を探る部分もありました。
また、社会人の多いクラスなどでは、なかなか学習者が進まないという悩みもあちこちで聞くので、その点を先生たちと一緒に考えたいということもありました。

今回は、その部分は少し落として、もうひとつの「一回完結」のテーマ、「日本語入門者は<できない学習者>ではなく、たった90分の学習でも<何かができる学習者>」という点が中心になりそうです。
あ、自律学習の落とし方も、もしかすると前回とは少し変わるかもしれません。
(文化もWeb活用もやってる。結構よくばり)

私たちの職場はわりと小さくて、アットホームな感じで、講座の授業を待っている間、受講生はいつも図書スペースで雑誌や漫画を読んだり、展示してある折り紙作品を見たり、宿題をしたりしています。
クラスが仲良くなってみんなちょっと早めに来て、集まっておしゃべりしたり誰かが見つけてきた日本の物を一緒に眺めている姿を見かけると、それはとても嬉しい。
(民団の韓国語クラスを思い出す!!)
前回の体験コースでは緊張して座って待っていたリピーターの学習者が、今度は雑誌コーナーで仲良くくっついて日本のアニメ雑誌を眺めているのを見ると、それもやっぱり嬉しい。

せっかくリピーターが多いなら、彼らを生かせるシカケもぽこんと入れてみたいと思っています。

古いファイル [いろんなことから考える]

引っ越すたびに持って移動しているファイルがいくつかあります。

手書きの教案の束だったり、自作のプリント教材だったり、はたまた絵カードだったりしますが、その中に「某教科書の課ごとにプリント整理をしたファイル」があります。
新人の時に作成してそのまま持ち歩いていたのですが、今回久しぶりに開いてみて、あれ、と思ってしまいました。
うーん・・・今だったらこれはもう必要ないな、と。

そのファイル、例えば教科書の14課に「~ています」の文型導入があったとしたら、自作の「~ています」を練習させるプリントに加えて、さまざまな教材からコピーした「~ています」の練習問題が入れられているのですね。聴解あり、読解あり、ゲームあり、もちろん文法問題ありと、その内容は非常に雑多。
そして、ぱっと開けば何となく90分は授業ができるようになっている。

うーん、これってどうだろう。
新人の時には、確かにそういうものを必要としていたわけだ、けど。
違うな、と思ったのは、文型中心だからという理由ではありません。何と言うか、寄せ集め感なのですね。

もちろんそれを集めている過程で、「あ、こんな練習もある」「これは勉強になる」と思ったことも多々ありますし、絶対そういう経験も必要だったとは思うのですが、一方でこのままだと、単に「どう90分をやりすごすか」という状況に陥りかねない。
目の前にいる学習者を見たり、彼らに何ができるようになってほしいかを考えて総合的に授業を組み立てたり、という視点がない。
それから、教科書にはそれぞれ個性や方針があるはずなのだけれど、寄せ集めの切り張りだと、結局「いろんな文法パターンを練習させているものがいい」「問題が多いほうがいい」だけになってしまいかねない。会話や機能に力を入れた教材だとしても、その教材の本質を見極めることができず、ただ問題数だけで考えてしまいかねない。

多分、今ならそういうファイルをつくっても、違う形になると思います。
自作のプリントはちゃんと入れると思うけれど、他は違うかも。
あるいは、同じものをつくったとしても、視点や使い方が違うはず。
文法のドリルや口ならしは今でもするし、語彙習得の練習だってするけれど、90分、目の前にいる学習者それぞれに対して違ったものを提供しようとするし、ドリルもキューも全部自分で準備していくはず。だって、そのほうが絶対やりやすいから。
むしろ以前のやり方のほうが、「プリントできるだけたくさん作っておかなきゃ」「絵カードは」「レアリアは」と追われていて、自分の不安を埋めるために準備をしているような感じでした。

今のような視点ががっちり身についたのは、おそらくこの3年教材作成に携わってきたこと、そしてその教材を使ってのモデルクラスを担当してきたことがあると思います。モデルクラスの場合、他の教科書からのコピーや切り貼りなどをするわけにはいかないので、踏ん張って取り組んでいる間に、何かが身についてきたのではないかという気がします。

「初級の授業はレアリアや教材をたくさん持っていくのがいいと言われるけれど、ペン一本だけ持って行って、そこで授業を展開させられるかどうかも日本語教師の力だ」
という言葉を聞いたことがあります。
確かに、与えていったプリントを無暗とやるのではなく、その場の学習者の反応を見ながらぱっと練習を切り替えたり、プリントがなければノートに書いてもらったり、レアリアがなくてもジェスチャーや説明ができたりする力。
誤解がないように言えば、別にプリントを否定しているというわけではなくて、そのプリントが本当にその時のその学習者に必要なものか、あるいはまた、将来的に見て絶対に必要と感じているかといった、取捨選択していく教師側の力。

まだまだ及びませんが、ちょっとずつちょっとずつ、その場所に近づいていけたらと思っています。

CHICAGO [旅]

用事でロンドンへ行った時、空き時間にミュージカルのCHICAGOを観てきました。
映画版は観たことがありましたが、舞台は初めての作品です。

で、劇場で「あれ」と思ったのですが、あの中に出てくる「有罪で絞首刑になってしまう、英語があまりできない女の子(多分無実)」は、実はハンガリー人という設定だったのですね。
東欧かロシアの出身という印象はありましたが、彼女のセリフを聞いて、「あ、ハンガリー語だ」とドキッとしてしまいました。

言葉がわからない。
外国で自分の状況や思いをきちんと伝えられない。
そういうことは、きっと今でもあちこちで起こっているはず。
こういう仕事をしていると、何だか考えてしまいます。

それからもうひとつ思ったのは、この女の子がロシア人でもなくチェコ人でもなく、ハンガリー人だということ、それには何が意味があるのだろうかということです。
1920年代のハンガリー。オーストリア・ハンガリー二重君主国として第一次世界大戦に参戦し、そして敗戦。
戦後は念願の独立を果たしたけれど、同時に敗戦国として、領土のかなりの部分を失った国。
そういうイメージを重ねてしまったのは、考えすぎなのかな。

写真は、ロンドンからです。

London 056.jpg

日本語教育に転身して [いろんなことから考える]

この世界、最近は学部から日本語教育専攻という方もどんどん増えてはいますが、それでもまだ「他の分野からの転身」という方が多いように思います。

かく言う私も別の分野で大学院に行っていて(ドイツ語と歴史です)、その後しばらくしてから思い切って足を踏み入れた世界が日本語教育。転身組の一人です。

その状態、つまり、

 ・別の世界にいた。しかもそこで(無謀にも)がんばってみようとあがいていた。
 ・長い学生生活にげんなりしていたので、シゴトをしたかった(日本語教育との決定的な違いは、歴史には<現場>に相当するものがないということ)。
 ・そこから入ったのが日本語教育なので、最初からシゴトだった。

といういくつかの経験が、やはり今の自分にそれなりに影響を与えているような気がします。

何と言うか日本語教育がとにかくシゴトなので、学会などに自分が出る場合、アカデミックなもの<以外>を求めている部分もあるとか。
例えばそれは、人とのつながりだったり、ネットワークだったり、非常にはっきりとした「明日実践してみたい」という気持ちを現場の先生に持ってもらえたら、という部分。
そう思うのは、もちろん今の立場とも関わりがあるのでしょうね。

じゃ、アカデミックな面に興味がないかというとそういうわけではなくて、自分自身があの、非常に冷徹で研ぎ澄まされた「歴史論文」というものと格闘していた経緯があるだけに、今自分を支えている現場型日本語教育の、その背景の理論や分析に関わっている人には徹底してそれを極めてもらいたいし、こちらからも敬意を払っていきたい、謙虚に向かい合っていきたいと思っています。
だからこそ、研究性の高さを狙ったタイプの論文の中に、非常に主観的な記述や<ワタシ>度の高いものを見てしまうと、方法論の違いはあるのでしょうが、「そりゃないよなあ」と、思うこともたまにあります。

一方で、妙に早くから「分析」とか「理論」とか「緻密さ」とか「批判」といった世界にどっぷり入ったためか、緻密だったり分析力があることはごくごく当たり前で、もちろんスバラシイことには違いないけれど、世界を変える骨組みという程までには愛していない。
とにかくそれは、ごくごく平凡で当たり前のものなんじゃないかな、と感じている部分もある。
当たり前のものなだけに、必要でないと判断した場合は、逆にぽこんと脇にどけられるような気もしています。

まあ、それやこれやで気負いなくシンポジウムなどに出てしまう自分がいるわけですが、振り返ってみていいことなのかどうなのか。
最近は、もうちょっと勉強してみなければなと思っています。今度は、日本語教育の視点から。

他の、似たような背景の方はどうなのでしょうか。
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