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CHICAGO [旅]

用事でロンドンへ行った時、空き時間にミュージカルのCHICAGOを観てきました。
映画版は観たことがありましたが、舞台は初めての作品です。

で、劇場で「あれ」と思ったのですが、あの中に出てくる「有罪で絞首刑になってしまう、英語があまりできない女の子(多分無実)」は、実はハンガリー人という設定だったのですね。
東欧かロシアの出身という印象はありましたが、彼女のセリフを聞いて、「あ、ハンガリー語だ」とドキッとしてしまいました。

言葉がわからない。
外国で自分の状況や思いをきちんと伝えられない。
そういうことは、きっと今でもあちこちで起こっているはず。
こういう仕事をしていると、何だか考えてしまいます。

それからもうひとつ思ったのは、この女の子がロシア人でもなくチェコ人でもなく、ハンガリー人だということ、それには何が意味があるのだろうかということです。
1920年代のハンガリー。オーストリア・ハンガリー二重君主国として第一次世界大戦に参戦し、そして敗戦。
戦後は念願の独立を果たしたけれど、同時に敗戦国として、領土のかなりの部分を失った国。
そういうイメージを重ねてしまったのは、考えすぎなのかな。

写真は、ロンドンからです。

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スロヴェニアへ [旅]

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少し前のことですが、イースターはスロヴェニアへ行ってきました。
プライベートで任国外に出るのは、おそらくこれが最後になる予定です。

飛行機から降り立つと、すぐそこにはアルプスが見え、チロルやイタリアを思い出させるような街の雰囲気、それから郊外の可愛いお城と湖。
ここが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナやセルビアと同じ国だったことが何だか不思議にさえ思いつつ、それでもとても落ち着いた、ほっとできる景色を見ながら歩いていると、街中に突然チトーの銅像が現れたこともありました。

ハンガリーに赴任が決まった時、国境を接する国と、それから中東欧と呼ばれる地域にはできるだけ行ってみようと思ったのを覚えています。
さすがに仕事をしながら全部というのは無理でしたが、意識していろいろな場所へ行こうとしたこと、特に昔のユーゴスラヴィアの国々へ行けたことは、私にとって本当に貴重な経験でした。

アルプスの景色が印象的な可愛らしいスロヴェニアと、イスラム教の女性がベールをかぶって歩くサラエボ。それから、NATOの空爆の痕も生々しいベオグラード。イタリア行きの船を眺めたクロアチアの港。ミニバスでぐるぐるまわったモンテネグロ。
文化も歴史も人々の気質もさまざまで、それでもずっと隣人として暮らしてきた人々が、ひとつの国になり、社会主義の時代と体制の崩壊を経験し、分裂し、戦争が起こり、そしてまたバルカンという地域で生きていこうとしている。

そういう場所にいると、自分の小ささや「何もできないこと」を感じ、でも、「何もできないこと」をちゃんと引き受けていこうと思う。

そんな風にいろいろなことを感じられる場所、中東欧に来られた時間の大切さを、改めて感じています。

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マートラの風景 [旅]

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大学の時、実は混声合唱部に入っていました。

勧誘のノリで思わず入部。それでも4年間、たくさん歌ってたくさん笑って、いい友人にも恵まれた中、特別な時間を過ごすことができました。

3年生の時歌ったのが、ハンガリーの作曲家、コダーイの「マトラの風景」。
その舞台となった「マートラ山」を、ハンガリー人の先生と同僚と一緒についに訪れることができました。

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マートラは、ハンガリーの最高峰。山頂のケーケシュは標高1015メートル。
ようやっと新芽が出始めたばかりの、一面のブナの森。
灰色の樹木が立ち並ぶのが、マートラの典型的な風景なのだそうです。
途中、溶岩や土石流などの岩を見ながら、目印を頼りにハンガリー横断路を歩きます。

すごいなあ。

この地方でコダーイが採取した民謡。そして、それが元になった、「マトラの風景」。
歌に出てきた義賊ヴィドロツキや、旅立つ若者が呼びかけた小鳥は、こんな場所で生まれた歌なんだなと思いながら歩いていました。

それから、ハンガリー人の先生が特別に探してくれたレストラン、「ヴィドロツキ」でお食事。
煙突からもくもくと煙が出る、可愛い小さなお店です。
ご主人のいろんな話を聞きながら、美味しい料理を堪能しました。

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ヴィドロツキ・マルツィは、いわゆる義賊。
富豪から金品を奪い、貧しい人たちに分け与えたという人物です。

コダーイは今でもやはり好きで、それは民謡の持つ土臭さや骨太なところにあるのではないかと思います。
コダーイの音楽の題名にもなっている、今はスロヴァキアのガラーンタや、ルーマニアのトランシルヴァニア。いつかいつか、そういう地域にも行ってみたい。
それから、多分マートラの近くのどこかにある、「ターリの野原」。それはどんな場所なんだろう。

よく、学習者に「日本語に興味を持ったきっかけは?」と聞くと、
「クロサワの映画」とか、
「富士山のポスターを偶然見て」
という答えがかえってくることが多く、日本人の身としては「へえ・・・」という感じだったりするのですが、やはり若い時の出会いというのは、強烈な印象を持つものなんだろうなと思います。

私が初めて「ハンガリー」という国を意識したのは、中学校の地理の教科書に出てきた大平原と馬車。そして、高校生の時聞いた、コダーイの「天使と羊飼い」。
全く住めるとは思っていなかった国に、日本語教育という思ってもみなかった形で3年住めたこと。改めて改めて、それって本当に幸せなことなんですね。

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マルタへ [旅]

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体験コースが終わった週末、2泊3日でマルタ島へ行ってきました。
「中東欧」以外のヨーロッパを、それも仕事とは無関係に訪れることの大切さ。ここもヨーロッパなんだな、こういう場所もあるんだな、と思いながらぐるぐる歩き、それからずっとバスに乗っていました。

ふだん、言葉が通じない国へ行くとやはり英語で会話することになるのですが、そうすると話す相手も限られてしまいます。
でも、マルタのような英語圏だと自然にいろいろな人と話せるし、いろいろな会話が(それなりにという程度ですが・・・)耳に入ってきて、それってとても安心できることなんだなと改めて感じることができました。

もしかすると、これが今回最後の国外旅行になるかもしれません。
以下、写真はマルタのバルコニー、それから海の景色です。

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ロンドンへ [旅]

先週のことですが、ロンドンへ行ってきました。出張です。

実はイギリスに足を踏み入れるのはまったく初めて。と言うと、「ええっ!?」と言われるのですが、ドイツやイタリアやスロヴァキアやボスニアには行ったことあっても、イギリスはまったく初めてでした。

今回はヨーロッパに赴任している関係者が集まっての会議もあったのですが、大陸チームの感想。

「街に<わからない言葉>がなくて変!」
「英語の下に<わからない言葉>が書かれてなくて変!」
「言葉がわかってしまって変!」
「ポストが赤くて丸くて日本みたい!」
「横断歩道を渡るとき、右・左・右と見るなんて、日本みたい!」
「車が右ハンドルなんて、日本みたい!」
「街の雰囲気が東京みたい!」
「靴下屋がある!!!」

そしてあげくの果てに出た言葉が、
「日本みたい」 → 「外国みたい!!!」

ハンガリーやドイツやイタリアなどから行くと、イギリスにこういう印象を持ってしまうんですね。

言葉というのは不思議な感じでした。
「みんなわからない言葉を話していたり、わからない言葉が書かれているのが当然で、ごくたまに外国人へのサービス・あるいは一種のファッションとして登場するのが<英語>という毎日なので、普通にみな英語を話したり、当たり前のように英語があちこちに記されているのを見ると単純な不思議さがありました。そこには、何でそれ以外の言語を記そうとしないのかな、ということも含めてです。

しかし、物価の高さは異常。
何もしないのに、どんどんお金がなくなっていく。特に、公共交通機関の高さは半端じゃありません。
劇場も美術館も食もお店も豊かだけれど、ロンドンはやはり遠くにありて眺めるもの。だけどその反面、妙に日本に似たところもある雰囲気に安心感があったのも事実。
ちなみに、両替所で試しに聞いてみたところ、ハンガリー・フォリントは受け付けてもらえず無念。

煉瓦づくりの建物、やたら黒い色、柱の多さと太さと頑丈さ、巨大工場の雰囲気など、とにかく全てが見たことのない景色。ヨーロッパ大陸じゃないんだ、産業革命の国だなあ・・・と実感。
出張なので自由時間は殆どありませんでしたが、移動の時に窓から見る景色だけでも、いろいろ感じたロンドンでした。

今回、写真はナシです。


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ソフィアへ [旅]

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先週末、ブルガリアのソフィアへ行ってきました。
もともとは旅行だったのですが、気がつくと研究会で発表させていただくことになり、それから自分でもOPIのインタビューを4本も入れてしまったりして、2泊3日の中で自由時間はほんの3時間という旅でしたが、こういう旅もまたいいなあ、と思ったのでした。

いつもと違う環境で自分の考えを話したり、発表したりして、忘れそうになっている視点を振り返ることができました。
ブルガリアの先生方とお話するのも貴重な経験でした。

ソフィア大学の学生さんとはOPIのインタビューを個別に実施した後、一緒にお食事をしたのですが、それぞれ知り合った後に一緒にご飯を食べることで、「さっきのあの話ね」とか、「そういえばこれはどうなの」など、一人ひとりの顔がはっきり見えてくるような楽しさがありました。

それから、ソフィアの街並み。

「ブルガリアの田舎には古いきれいな街並みがたくさんある」
とは聞いていたのですが、サラエボ以来何となくバルカンが気になるようになった私は、ソフィアだけでも赤い瓦の屋根、木々の豊かな通り、モスクや正教の教会、それから少し南国っぽい人々の明るさなどに、とてもほっとすることができました。
食べ物も、いろんなサラダがたっぷりで、ヨーグルトもチーズも美味しくて、とても気に入りました。

またいつか行くことがあるかな、と思います。ブルガリア。

発表させていただいた、ブルガリア日本語教師会のHPはこちらです。↓

http://nihongo-kenkyuukai.blogspot.com/


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サラエボへ [旅]

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナへ行ってきました。
首都のサラエボです。

市内はまだ銃弾の残った建物も多いし、地雷も完全撤去されているわけでないというけれど、思った以上の治安のよさ! 人のあったかさ! 心遣いの優しさ!
山に囲まれた景色の美しさ!

旧市街のオリエンタルな雰囲気と美味しいコーヒーにすっかりノックアウトされて、
「バルカンいいぞ~」
と、マケドニアやアルバニア行きの航空券の金額チェックなんかしておりました。

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一時の浮かれ気分も少しずつ落ち着き、その中であらためて思うのは、
「あんなあったかい人たちときれいな街が、つい最近まで内戦の中にいた」
ということでした。

サラエボの地形の特徴は、行ってみて感じることでした。
急斜面の山が迫っていて、囲まれて閉ざされた地形。細い平野。
同僚とも話したのですが、あんなところで囲まれたら狙い撃ちにされるしかないような場所。

物見遊山で行ってはいけないと思いつつ、それでもやはり思い切って足を踏み入れた場所がいくつかあります。
まず、戦時中でも営業を続けていて報道の最前線になったというホリデイ・イン。
そのホリデイ・インの前に広がる、動く者はみな狙い撃ちにされたという「スナイパー通り」。

foto 045.jpg ホリデイ・イン
foto 053.jpg 壁に残る弾丸の痕
foto 062.jpg 紛争中に攻撃を受けた国立図書館
foto 077.jpg 「永遠の灯」

そして、ずいぶん悩んだ末に行ってみたのが、1984年に行われたサラエボ冬季オリンピックの施設跡地。
そのグラウンドは、今はもう一面の墓地になっています。
果てしなく続くイスラム教徒の墓地、その隣の区画には、こちらも果てしなく続くキリル文字が書かれたキリスト教徒の墓地。
ちょうどお墓参りに来ている家族連れもいましたが、ここでは、さすがに写真を撮る気にはなれませんでした。

サラエボ・オリンピック当時、「モスクワやロサンゼルスなどオリンピックは政治の影響を受けてきているけど、ユーゴスラビアは複数の民族や言語や宗教が共存する国。そこでオリンピックが開かれるのは本当に意義深いことだ」と、聞いたのを覚えています。多分、学校で聞いたのではないかと思います。

確かに私が泊まったホテルでも、朝には教会の鐘が鳴り、夕べにはコーランが聞こえ、旧市街を歩けばユダヤ教会のほんの先にはカトリックの大聖堂、それからセルビア正教会、そしてたくさんのイスラム教のモスクとヴェールをかぶった女の人たち。
いろいろな文化と民族が出会った場所が、まさかあれから10年もたたないうちに内戦の場になってしまうとは想像もしませんでした。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは犠牲者が20万人、難民・避難民が200万人出たのだそうです。
とても英語が達者な若者がいたのですが、彼の言葉は「戦争の時逃げ出してカナダで育ったから・・・」というもの。彼も難民だったのですね。
20万人って、広島の原爆犠牲者と同じ数・・・ ←広島人

昔々、ウィーンの語学研修で一緒だった女の子は、「私はユーゴスラビアから来たの」と言ってましたが、彼女がクロアチア人なのかセルビア人なのか、ムスリムなのかは聞くこともありませんでした。
あの当時、西側に行けるような子だったから、首都で育ったセルビア人だったのか、豊かなスロヴェニアの出身だったのか。

第一次世界大戦が勃発した場所。
そして、つい最近まで内戦が行われていた場所。

バルカンにとってはガイジンである私たちが軽々しく踏み込んではいけないとは思うけれど、やはり考えさせられる場所でした。

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第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の現場
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こや [旅]

バラトンフレドの駅前にあった、小屋(空家っぽい)です。

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なんかこれ、日本の我が家の近所にあったヤツと似ている気がするのですが???
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プチ・バカンス [旅]

日本の皆様、お盆はいかがお過ごしでしょうか。
私ですが、去年もここで書きましたとおり、夏休みというものはありません(笑)。

事務所勤めなので、夏も普通に動いています。
お盆休みのようなものもないので、休みたい場合はみな交代で3日とか一週間とかバカンスをとります。

このたび、ついうっかり休みをとりそこなってしまった私・ゆに。
けれども、まったく夏らしいことをしないのは、ちょっと悔しい。
なのでこの週末、衝動的に「ハンガリーの海」こと、「バラトン湖」へ一泊二日で行ってきました。
行き先は、バラトンフレドです。

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ブダペストにはない雰囲気。
バラトン、下手したら瀬戸内海より大きく見える(笑)。

バラトンフレドは療養地としても有名だそうで、飲用温泉も湧き出しています。
ここで水を汲むことができます。
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ヨットがたくさんぷかぷか浮いているのを見ると、やはり少しは船にも乗りたい。
これは、船から見たティハニ半島の景色です。
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誰もがゆったり歩いていて、誰もが幸せそうで、やっぱりリゾートっていいですね。
この遊歩道は、バラトンフレドで療養していたインドの詩人・タゴールが植樹したものなんだそうです。
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帰りの電車は満員で、冷房も入っていない車両が、だだっぴろい草原の中を止まりながら進むのですが、それもまたオツ。
「バラトンへ行った」ことで、少しだけハンガリー人デビューできたかも??

余談ですが、バラトンは冷戦下では、生き別れになった東西ドイツの人たちが出会うための避暑地としても、よく知られていたそうです。
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クラクフ(ポーランド) [旅]

思い出し日記・旅行編第三弾は、ポーランドのクラクフです。
2008年の12月に行ってきました。
Iさん、皆さん、お世話になりました!

クラクフは街自体が世界遺産になっているような素敵なところで、ブダペストよりずっと乾燥し、ブダペストよりずっと冷たくて痛い!!
ほっぺたまでカバーする厚手の帽子を、さっそく購入しました。
守衛のおじさん、あったかくしているかどうか、ちゃんと気にかけてくれてありがとう!

12月という時期のためもあってか、静かでひっそりとした、美しい街でした。
ポーランドは前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の母国ですが(広島でスピーチをされましたね)、とても熱心なカトリック国という印象を受けました。教会の雰囲気など。

ゲットーも、いろんなことを考えさせられました。
クラクフは「シンドラーのリスト」の舞台にもなったところ。
郊外には、今回は行きませんでしたがアウシュビッツがあります。

電車で行ったのですが、スロヴァキア~ポーランドの山の景色は本当に素敵。
「スロヴァキアの山はすばらしい」と言いますが、まさに。

でも、こんなに見事な景色が見られるのに、昼間の電車は私が乗った便がたぶん最後。
ブダペスト~クラクフ間は、どうやら夜行寝台だけになってしまったようです。
たしかに、がらがらでしたもんねえ。

で、帰りは快適ぬくぬく夜行寝台で帰ってきたのですが、早朝にたたき起こされ、車掌さんが、
「ストライキ!!!」

そして、無残にも途中でおろされました。

そう、2008年12月、クリスマス前のみなが帰省で大移動をする忙しい時期に、ハンガリー国鉄は延々10日以上もストライキをしていたのです。(空港もストでした)
ハンガリーって大陸のど真ん中にある国なので、他の国にも影響があったのではないでしょうか?

日本だと大パニックになりそうなのですが、みな淡々としています。
「止まっちゃってたから長距離バスにしましたよー」とか、そんな感じ。

で、大パニックにはならないけれども、「代行バス」なんて便利なものも出たりはしていないので、自力で帰り着かなければなりませんでした。

こちら、けっこうストあります。皆さん、ご注意を。
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