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「Deai」から10年 [教師研修と、その周辺]

Web活用法の研修の中で紹介された、国際文化フォーラムの「くりっくにっぽん」。

いい記事が多いなあ、日本人が読んでも面白いなあと思いつつ眺めていたのですが、そこで発見したのが「Deai」の若者たちの10年後の姿でした。

「Deai」は実在する7人の高校生たちの姿を伝えた教材。写真シートなどを入れたキットとホームページがあります。

「Deai」を知ったのは、多分2002年。
これからドイツに行くという時の派遣前研修の場でした。
所属先が中等教育機関ということもあって、実在の高校生を主役にしているということに強く関心がわきました。そして、「こんな教材があるんだ」「すごい」と、感動したのを覚えています。
あれからもう10年近く経つんですね。

彼らはどう生きてきて、どう変わっていくんだろう。
10年前にも「同年代の人たちはどんな生活を送っているんだろう」と思ってもらえる教材でしたが、今はそれに加えて、高校生たちが自分の将来に重ねてくれるかもしれない。

授業でどう使うか、という視点を超えて、純粋に読んでほしい、紹介したい。
そんな風に思いました。

研修 (Webの活用法) [教師研修と、その周辺]

今年度一回目の研修。(勉強会は別枠なのです)
授業でWebをどう活用していくか、ということでした。

今回の企画も講師も私ではないので、どんな話だったかはとりあえずここでは書きませんが、アシスタントとして参加しながら自分はどうWebを使っているだろう、と考えました。

授業の中でネットに接続したり、トピックをひろってきたり、あるいはニュースを見たりなど、いろいろ思い当たるところはありますが、ここ1年を振り返ってみると、去年は半年間、月1回の上級聴解を担当していたので、月1回という限られた時間を有効に使うためにも、Webの聴解教材から課題を出したり、「おすすめサイト」を毎回必ず授業で紹介するようにしたりもしていました。

また、3~4ヵ月に一回ペースで開講している体験コース(1回目2回目)では、興味を持ってどんどん自習を進めていったり、日本について知りたいという学習者のために、3回のコースの最後にその回のテーマに合ったWebサイトの紹介を組み入れています。

中間テストの日に、クラスによって余った時間でいろいろ活動や復習を入れてもらうようにしているのですが、私たちのクラスはペアの先生の発案で、「Webサイト紹介」を組み入れました。

自然発生的なものとしては、学習者とのSNSでの交流や、彼らが撮った写真を共有サイト経由で受け取ったり、というのは日常的に行っています。
そうだ、日本語ブログを作っている受講生たちにLang-8を教えたこともありました。

あと、来月にもひとつ企画があるのですが、それはまた今度。



さて、今回改めて感じたのは、Web学習の<軸>の部分です。

教師は何故Webを学習者に紹介しようとするのか。
もちろん、復習のためとか、文化理解を深めるためとか、試験対策とか、あるいは授業の中でどう活用するかとかいろいろあるのですが、最近思うのは、「自分で学ぶ」ということ。

そのことを、例えばe-learningのような完結したコースとしてとらえることも可能だけれど、それだけじゃなくて、教室に通っている学習者でも興味を持って家でどんどん開いてみたくなるような、あるいは自分で学習を進めてみたくなるような、そんなシカケを授業の中に組み込むことの大切さです。

で、実際に「そのサイトを彼らが見たかどうか」なのですが、ここは扱いが難しいと思っています。
「自分はこれだけ見た!」という気持ちを伝えたい中学生くらいの学習者なら、例えば宿題に組み込んでしまうことも効果があるのでしょうが、社会人ぐらいになってくると、必ずしもそうとは言えないような気がします。
ただ、社会人こそびっくりするほどWeb活用のストラテジーを持っていたりもするので、その経験を共有する機会をクラスにこっそり組み込みたい。
と同時に、そのことが、忙しくて見ていない学習者にプレッシャーを与えてしまうのは不本意なので、入れ方にやはり工夫が必要だと思っています。

いずれにしても、教師が学習者の「外で学ぶ力」を信じていないといけないんですよね。

勉強会(文字教育) [教師研修と、その周辺]

以前の日記にも書きましたが、CEFR準拠教材の試用とともに、評価や文字教材の開発を進めています。
今回は4月の「教材概要とポートフォリオ」に続き、独立させて「文字指導」の実践報告をさせていただきました。

ひらがな・カタカナ学習、漢字導入の段階と手順、漢字数の根拠と決定、定着の方法、読み書き教育との関連。
限られた時間をどう効率的に使っていくかということ、どう積み重ねていくかということ、そして、ポートフォリオの中にどう落としていったかということ。
それが、主な内容となりました。

ポートフォリオと同様にいつかきちんと取り組まなければ、と思っていたもののひとつが、文字教育でした。むしろこれはポートフォリオ以上に切実な課題だったと言えます。

「日本語が大好き」と言う学習者が、ひらがなの段階で挫折してしまうこと。
仕事が忙しい社会人が、漢字の時間についていけなくなること。
漢字を何とか楽しんでもらいたいと思ってゲームや活動を取り入れても、その場その場に記憶にしか役に立たないという経験。
初めて出た海外で、現地の先生に漢字教育について相談を受けて、きちんと応えられなかった時の悔しさ。
「日本人教師は漢字指導では頼れない」という評価を耳にしたときの、何とも言えない複雑な気持ち。
それから思い出すのは、何年も何十年も日本に住んでいるのに、流暢な日本語で交渉できるのに、時にはひらがなさえ覚束ない在住外国人の人たち。

「楽しみだからきちんと積み重ねなくてもいい」というコースも、もちろんあるでしょう。クラブ活動のような授業では、それも大切な視点です。
また、「ローマ字だけで十分、それよりは必要なものがある」というような、目的意識が最初からはっきりした学習者には、それに対応したコースを当然デザインしなければなりません。
でも、「総合的に日本語を勉強しよう」というクラスや、「目的といっても・・・とにかく日本語なら何でもやってみたい」といったタイプの学習者には、文字もきちんと提供していきたい。「できないのは努力不足」だけでは終わらせたくない(いや、もちろんそういうケースもあります)。何年も勉強して話すことは上手なのに、漢字が弱くて読み書きアレルギーが起こってしまうような状態に学習者を追い込みたくない。緻密に体系的に作成された漢字教材はいくつかあるが、それを<どう使うか>という部分を明確にしたい。そしてまた、「ネイティブの教師は漢字指導をする力がない」という、否定的な評価を生みだしたくない。

今回の試用で私が関わったのは1クラスだけだし、人にくっついて走っていた部分も多いのですが、それでも受講生の反応や自分自身の発見など、やはりやってよかったと感じることがたくさんあります。
もうすぐ任期終了。彼らの<これから>を見届けられないのが本当に残念です。でもそれは、次の代に私には気がつかない新しい視点で何かを発見してもらうためだと思っています。
さて、将来彼らは中上級にあがっていこうという時、抽象語彙や漢字をどう身につけていくのだろう。

先月、今月の勉強会、そして1月に三機関合同で行った研修会には、いろいろな機関の方に来ていただけました。
ハンガリーの方が中心になって作成された教科書。試用の報告や実践発表を通じて、本当に、いろいろな人に関心を持っていただけたらと思っています。

勉強会 (ポートフォリオ) [教師研修と、その周辺]

CEFR準拠の教科書。
そのWord版が完成したので、先輩同僚と一緒に試用を開始したのが去年の9月。
早いものでコースも半年。そして、私の任期終了まであと2ヵ月。せっかく実践してきたのだからと、講座勉強会はシリーズで実践報告を行うことに決めました。
第一回目の4月15日は、まずは基本の教科書概要、デモ授業を経て、主にどういった形で「ふりかえり」や「自己評価」を授業の中で行っているかをお話しました。

ポートフォリオに初めて触れたのが、10年ほど前。
「本当に効果があるんだろうか」「どう使えば、本当の意味で<使った>と言えるんだろうか」とモヤモヤしていた時期を経て、今またポートフォリオに取り組んでいる。
だからこそ思うこと。それは、実際に現場で使っている先生に「ポートフォリオの使い方・意義」を抽象的にではなく、具体的な成果として提示することの大切さです。
実際に授業の中で導入するタイミング。時間配分。ふりかえり方。長期のコースでの落とし方。それを伝える。そして同時に、主催側がきちんと自分の中で消化しておかないといけないんじゃないかな、ということです。

もちろんそれはどんなテーマでも言えることです。ただ、特にポートフォリオの場合、主催者側が形だけなぞろうとすると、あっという間に「ポートフォリオって子どもっぽいんじゃないか」とか、「ただのファイルと何が違うのか」「使い方は具体的にどうなのか」という疑問の前で立ち往生してしまうはず、なのです。

そう言う私も先輩にくっついて走る毎日ですが、自分でやってみて「よかった」と思えること、もう少し自分自身で実践してみたいことはたくさんあって、それをなるべく<具体的に>提示したい、ということはいつも思います。

<何かが>変わった。で、それは? <何か>って、それは具体的に何? どうしてそれが生まれたのか?
今回、それもあってデモ授業をしてみました。

具体的に。
あるいは、輪郭がつかめるような研修。
そのことは、自分の中でいつも意識しておきたいと思っています。

停電の中での研修 [教師研修と、その周辺]

3月に帰っていたのは、実は業務上の研修に参加するためだったのですが、ちょうど地震の直後、計画停電がスタートした週だったので、研修の間も混乱・予定変更・混乱という状態でした。

まあ、基本的に集まっているのが<海外の専門家>ばかりなので、たくましいと言えばたくましい面子ばかり。
行けと言われたらニューデリーとかサハリンとかナイロビにまで行くわけです(派遣中の皆さん、すみません)。20代のほっそりした専門家だって、「私がパキスタンに行った時」と言ったりする。そりゃ、たくましいです。

そうは言っても停電でパソコンが動かせなかったりコピーが使えなかったりすると、予定もいろいろ変わります。
特にグループ作業で行っていた最終課題は、本来パワーポイントでの発表を予定されていたようなのですが、急遽「模造紙と色マジック」による、壁新聞方式に変更。それぞれのチームに模造紙が配布されました。そうなると教育関係者の性で、もりあがっちゃうわけです。

とりあえず我らはまだ「壁新聞」で育った世代。わいわい言いながら準備をし、何とか発表にこぎつけました。データじゃないと「共有しにくい」不便さがありますが、そこはデジカメ撮影を提案していただけて、無事共有も可能となりました。

そして、いろんなことを考えました。

それこそ私たちはどこに行くかわからない。
直接の職場には機材がそろっていても、出張先で研修を行わなければならなくなった時、そこに必ずしも全てがそろっているとは限らない。
あるいは、電力やネットの状態が不安定で、通常は問題なくても突然うまくいかなくなるということも十分考えられる。
そういう状態の中でも対応して、そこにあるもので何かをつくる力とか、あるいは不測の事態に対応できる柔軟性。それは、どこに行くかわからない私たちには絶対に必要な力だとも思います。

そうはいっても限界はあるわけで、例えば「Web版 エリンが挑戦!」とか「アニメマンガの日本語」サイトのデモをネットなし環境で!なんてのは非現実的ですし(でもちょっとだけ、頭の中でシミュレーションしてみた)、そういう声がもしあったら、どうしてそういう声が起こったのかをきっちり聞いて、いい代案と方法を提出できるような力が大切なんじゃないかと思うわけです。

もうひとつ思ったのが、思考の過程を残していく大切さ。
グループで課題発表のアイデア出しを行っていた時、通常ならPCで誰かが打ち込むのを見ながら意見交換をするのでしょうが、パソコンがいつ使えなくなるかわからないという状態で行ったのが、
「大きめの紙にマジックで出たアイデアや意見を書記の人だどんどん記録していって、それを全員で見ながら話を進める」
という方式。

これが、思った以上によかったです。何故なら、思考の過程が残るからなんですね。

「んー、こうしようか、でもやめようね」
と言った古いアイデアが、ぴっぴっと線を引かれた状態で残っていたり、
「今回の課題には直接関係ないけど、平行して裏でこんな企画も走れたら意義深いよね」
と言っていたようなものが、すみっこにちょこちょこっと記録されたり、
話し合いの途中で、他のメモを手元に寄せて考えを整理したり、
パズルのように、いろんなメモとメモを並べてみたり、
それは、アナログ方式なればこその楽しさだったとも思いました。

さて、そうやって何とか課題発表を乗り切ったのですが、こういう<準備段階>の時間の活用というのはプレゼンの醍醐味でもあり、プレゼンに限らずプロジェクトや行事や企画運営でとても大切なことだったりするわけです。
そういうことも思い出した時間でした。

課題遂行と評価 [教師研修と、その周辺]

今年度最後の研修で講師を務めさせていただきました。
「変革期における日本語教育を考える」というテーマで、課題遂行への転換を言語教育が迎えている今の状況と、後半は具体的に評価にどう生かせるかという内容でした。

CEFR、JFスタンダード、Can-doという概念、それから能力試験の改定。
ここハンガリーでは理念の部分は何度も議論されてきたことなので、今ここで私が提示できることは何なのか、それから私がずっと問題と思ったきたことは何なのか。そういったことから、内容の半分は実践編とし、いくつか考えられるテーマの中から「評価」、特に自己評価やポートフォリオについてお話しました。
コースデザインではなく評価としたのは、「自分はコース運営の立場にない」という方や新人の先生にも、ご自分の授業に引きつけて考えやすいのではないかと考えたためです。

私がポートフォリオに最初に接したのは、多分10年ほど前のことになると思います。
その時は自分自身が新人だったこともあって、ぽこっと出現したそれをうまく使いこなすことができず、コースが終わってからも「どうすればよかったのかなあ」と、悶々と自分の中でくりかえすことが多くありました。
私の数少ない取り柄?のひとつが「しつこい」ということで、10年の間気になり続けたポートフォリオにここ1~2年本格的に取り組む機会が得られたことは、本当に幸せでした。

自分の経験もあったので、実践編については、

・自己評価チェックリスト(コースの最初や最後に行う)
・評価基準と評価シート(課題ごとに行う)
・文化体験の記録
・ふりかえりと共有の機会の組み込み方
・現在の職場での活用例

を中心に、コースの中にどう取り込むか、具体的には一時間の授業の中での取り込み方とあるまとまった期間の中での取り込み方、それから実際に使ってみての反応と、提示の仕方によって学習者に何が明確になるかという内容としてみました。

例えば、自己評価チェックリストの中で、B1を目指すクラスの学習者に、「あなたは内容に沿った質問ができますか」とひとつだけの質問を提示して○×をつけてもらうだけでなく、平行して「簡単な質問ができますか」「論理的な質問ができますか」と前後のレベルを提示することにより、「内容に沿った質問は自信がない」場合でも、けして自分の能力はゼロではないということに気がつきますし、また、B1が終わった後の次の目標も見えるのではないかと、そういった具体例をいくつかご紹介しました。

また、ポートフォリオは大人の学習者にはなじまないのではないかという意見を以前から聞くことがありました。
確かにそうかもしれないのですが、実際に自分が30歳、40歳の受講生に対して使ってみて、彼らこそ真摯に取り組んでいるのを見て、「うまく取り入れられれば大人こそ活用できるのではないか」と思うようになりました。

こういった発見も、職場の先輩や、各地で取り組んでいる同業の仲間たち、そして現地の先生方の声から生まれてきたものです。

今回はお話しませんでしたが、いつか機会があればと思っているのは、

・評価シートでは項目だてしにくい能力にこそ、ポートフォリオは活用できるのではないか
・目標の明確化を主にお伝えしたが、それが教師側の押しつけになってはいけない

という部分です。

今回は「いろんな立場の先生に役立てていただければ」という気持ちから「評価」を取り上げましたが、考えてみればプライベート指導に携わる先生もたくさんいらっしゃる中、もしかするとコースデザインを取り上げても興味を持っていただけたかもしれません。

言語教育も教室の外へとどんどん飛び出していく今、私が興味があるのはやはり<教室>だなと再確認した時間でした。
ネットででも独学ででも勉強はできて、特に若い人はアニメやドラマからぐんぐん日本語を吸収していく中で、それでも教室へ行く、という、時間もお金もかかる方法を人がとるのは何故なのか。教室という場は変革期の中で、何を提示できるのか。

私の課題です。

課題遂行と文字学習 [教師研修と、その周辺]

モデレーター」でも少しお話しましたが、私にとってパネルディスカッションのテーマ、「課題遂行と文字学習」は自分なりに3年間模索してきたテーマでした。

CEFRが動くヨーロッパに降り立って、ハンガリーで働き始め、Can-doシラバスの教材作成に関わるようになり、Can-doとは何なのか、語学学習はどこに向かうのか、「ヨーロッパの日本語学習」は何を拠り所としていくのか。
はたまた文字はどうなるか、理念の部分と「読み」「書き」学習との折り合いをどうつけていくか。そういったことが自分の中でずっとまわっていた3年間でした。
以前ドイツにいた時と決定的に違うのは、「そんなん自分にはわからない」とか、そういうのを言ってられない年齢や立場に入っているということ。文句ばかりでも疑問提示ばかりでもダメなのですね。何かそれに<成果>と<回答>を示さなければならない。

パネルディスカッションのモデレーターの役をいただいて幸せだったのは、自分なりにまとめる場所をもらえたから、だと思います。それも、ずっと一緒に考えたり試行錯誤していた人たちとともに考える時間を提供していただけたこと。

私は、課題遂行という言葉が好きです。
それが好きなのは、広がりを感じるからです。
生活漢字も、何かを表現することも、そこにつながってくる。
海外の学習者も、日本の学習者も、学習者なら誰もが何らかの形で持っている<課題>。
課題遂行ということで、もしかすると海外の日本語教育と日本の日本語教育は今後ますます違う方向に向かうのかもしれない。
でも、それらを包括する概念としての<課題>であってほしいな、と思います。

モデレーター [教師研修と、その周辺]

中東欧研修の締めくくりはパネルディスカッション。
そこでは司会・・・ある意味、モデレーターをさせていただきました。

モデレーター。
「調停者」「仲裁者」とも言われますね。

一般には「司会進行」と言ったほうがイメージがわきやすいのでしょうが、これを敢えて「モデレーター」と言うことで、

・パネリストの意見やキーワード、事前の発表の内容をひろい、質問をしつつ、ブツ切れにならないように緻密に議論を展開させる
・発言が偏らないように配慮する
・意見が出やすいように、切り出し部分の順番に注意する
・会場の疑問や雰囲気とパネリストとをつなぐ
・まとめる

といった機能が前面に出るように思います。

パネルディスカッションの面白さを「筋書きがないこと」と言う人もいるでしょうが、敢えてそういったものを狙っている場合ならいざ知らず、限られた時間で、しかも「二日間の研修の最後」となると、その期間内に参加者が感じた疑問やモヤモヤなど、いろいろなことを消化させる場として機能させることが必須であり、そのためには一見おおらかに見えても実は綿密なイメージづくりが必要だと個人的には考えます。
いわゆる「教案」を書く書かないは別として、授業のポイント、おさえるべき事項、展開、向かっていくところ、そういったことをイメージした上に授業は成り立つ・・・というのと同じです。

また、今回の研修のようにテーマの専門性が高い場合(課題遂行と文字教育)、モデレーターの知識が足りなくて立ち往生してしまったり、見当違いのまとめをしてしまう恐れもあり、それだけは避けなければなりません。

今回はテーマは既に公開されていたので、事前にパネリストそれぞれの立場や意見のヒヤリングをすることはしましたし、レジュメは当然読みこみました。
事前に発表しないパネリストの場合、その人がどういう立ち位置であってほしいかも考えました。
ありがたいことに受付やPC動作確認といったロジ部分からも、役割上ある程度解放させてもらえたので、事前の発表は聞きこみました。
個人的には非常に思いのあるテーマだったので、感情移入してしまわないように自分のコントロールも必要でした。

そして、やはり大切なことは、くりかえしになりますが、「会場の空気とパネリストをつなぐ」ということではないかと思います。
そのためには、研修期間中に周囲の雰囲気や空気を吸収する必要があります。パネルディスカッションの間だけではなく、二日間を通して、あるいは普段の業務の中でもそういう声を感じておく必要があるでしょう。

で、今回どうだったかというと、傍から見ると他の感想もあるでしょうが、自分としては議論は展開させていけましたが、話題の振り方が若干荒かったかなという気がします。途中、コーディネータ的な視点で入ってくれたパネリストに救われた部分もあります。
ただそう言いつつも、特に専門の話題になると何がどう出てくるか、どう話をつないでいくか、その部分がかなり苦しくもあり、と同時に非常に楽しかったのも事実です。

「質疑応答」との違いは、個と個のやりとりにとどまらず、総合的なまとめや展開を求められていることだとも思うので、「なんか、パネリストだけ楽しんでる」と会場に思われないよう、今後も意識しておきたいと考えています。
聞いてくださった方が、少しでも楽しんでいただけるパネルディスカッションであったなら嬉しいです。

中東欧研修 [教師研修と、その周辺]

中東欧の先生方に集まっていただいての日本語教育研修会が無事終了しました。ありがとうございました。
私はサポート中心でしたが、北はポーランドから南はモンテネグロまで、そして今回は日本からは講師の先生、スペインからもパネリストの方に来ていただくことができました。ネイティブ・ノンネイティブ合わせて10数カ国から集まってくださった先生方が日本語を共通語として共通のテーマについて話すこと、相談しあうこと。そのことの意義を考じる時間となりました。

私にとっては三回目の中東欧研修でしたが、一回目は「まずは知り合いになろう」「お互いのことを知ろう」というコンセプトだったと記憶します。
二回目はそれに研修の性質が加わり、そして三回目の今年は「文字教育」をテーマに、各国機関の試みの報告、講義、そしてパネルディスカッションと進んでいきました。

以前も書きましたが、自分が新人教師だった時にも、研修によく参加したり、地元で若手教師の会(若かったのですよ)に関わったりしていたのですが、それは今思えば「悩みを共有できる知り合いをつくりたかったため」という気がします。
けれども、「講義を聞く」ことがメインの研修だと、お互いのことがよくわからず、懇親会でたまたま近くに座っていた人としかなかなか話せませんでしたし、講師の先生のお話に対しても受身になってしまい、何だかうまく自分の中に取り込めないこともよくありました。かと言って「発信・報告会・悩み相談会」ばかりになってしまうと、その時はスッキリするのですが、結局前に進めなくてフラストレーションがたまるというのは肌で感じてきたことです。

今は研修の主担当ではないのですが、どういった研修が心に残り、何が本当に求められているものなのかと考えることはよくあります。
そしてまた、今の立場だからこそ見えなくなってしまうもの、聞こえなくなってしまう声もきっとあるはずなので、当時感じていた気持ちは忘れたくないとも思っています。

小テストについて [教師研修と、その周辺]

アウトプットとプロジェクト評価」の中でも触れましたが、授業の実践報告をする機会がありました。

お見せしたいもの、整理していきたいもの、そもそも自分自身がもっと勉強したいことは多々あるのですが、その中からひとつ。

いろいろ思うところがあって、以前も勉強会の中で少しお話したのですが、「授業中にテストをしないことの大切さ」のようなもの。それを改めて感じる今日この頃です。この場合のテストとは、いわゆる小テストですね。

どうして小テストをするのかを考える。もちろんそれは、「覚えてきてほしいから」。そして、それが効果がある学習者や、必要とされている環境もきっとある。
でも、特に社会人の多いクラスなどでは、必ずしもそれが効果を発するわけではない。
そんな時、「どうして覚えてこない」と怒ってしまうのではなく、授業の中に復習の機会をしっかりつくる。そしてその場でフィードバックする。そして定着をはかる。忙しい学習者や学習ストラテジーのまだ十分できていない学習者が、入門段階で挫折してやめてしまうような状況には追い込みたくない。

もう少し整理できて成果物が積み重なってきたら、春の勉強会でも出せるかなと思っています。
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