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「教える」ことを信じたい -子どもに教えていたときのことー [教室から]

ここへ来て、課題遂行能力とか協働とかプロジェクト運営とか、いくつか追いかけているテーマがあるにはあるのですが、意外とやはり原点にあるのは「教授」だったりします。

<個>や<自律>などが意識されている今日この頃に、何故、教室であり教師であり教授なのか。
と考えると、私自身が「教える」ということの意義深さをどこか信じているからかもしれません。

日本語教育のスタートが年少者で、その過程で外国にちょこっと行く機会もありましたが、なんというか、年少者だと並行して「概念」を教えなければいけないことが多いのですね。

例えば、数字の概念がない。時間の概念がない。順番の概念がない。
One, two, threeと母語で唱えることができても、それは何の意味も成してない。「つるにはまるまるむし」と唱えているのとその子にとっては同じ。
なので、もちろん計算なんてできない。計算どころか、もしかしたら今日と昨日の明確な区別さえできていないかもしれない。特に、母国で綿密な学校教育、幼稚園教育を受けてきていなかったり、年が小さい場合はそれが顕著。のびのびと、食べたい時に食べて、眠りたい時に眠って、あるいは大人の言われるがままに行動していて、自分でそこを自覚的にとらえていく訓練をしてこなかったのかもしれない。
それが形にあらわれるのは、例えば、一日の流れを表にした時間割やカレンダーを読み取ることができないということ。とにかく、全てがあてずっぽうなのです。

で、悩みに悩んで、小学校低学年のプロの先生にも相談して、ひたすらやった活動が、「一日を<順番でふりかえる>」ということでした。

「今から日本語の勉強。さっきの勉強は何だった?」
から始まって、
「その前の勉強は?」
「長い休憩はいつだった?」
「朝は、起きてから何をやった?それから?そして?」
で、一緒に時間割を見る。その紙の上で、今が<いつ>かを確かめる。そして<今>には<前>というものが世の中に存在していることを指さす。<今>の上には<後>がある。そして、<前>と<今>と<後>は一列につながっているということ。<明日>というもうひとつの軸は、<今日>の軸と平行してあるということ。そして<今日>には<曜日>という別の視点があるということ。そして、<今日>から見れば<明日>は木曜日でも、<明日>という別の軸になれば、<明日>は金曜日に変わること、この複雑さ。
もちろんそれを確かめながら、「ほら、時間には順番があるでしょ」「明日になれば曜日も変わるよ」なんて余計なことは言わない。でも、願いはそこで、何とかそれにたどりついてほしいと祈るような気持ちで、「今日あったこと」「昨日のこと」のお話を続け、「今日・昨日・明日」の概念と、時間の概念と、朝・昼・夜のことと、そして曜日についておしゃべりしつづける。
実はこういうのって、保育園や幼稚園では子どもたちはくりかえしてきていることなんだそうです。その上で、小学校に入ってくるんですね。
で、その子が「わかった!」と突然叫んだときの、飛び上がらんばかりの喜びよう。

「ごく自然に習得した」ようなことの中に、実はそれとは気づかない形で大きな目的や希望があって仕掛けがあって、そして、その目的を本当に大切だと信じている大人が、目的や仕掛けをそれとは知らせずに、でもとても大切にそちらの方向へ一緒に歩いていこうとすること、押し出していこうとすること。もちろん、その過程で起こるハプニングは一緒に楽しむこと。一緒に考えようとすること。

その時に感じた気持ちを、年少者以外に教えるときにも、それぞれの形で大切にしたいなと思うのです。
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