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文化について考える [日本語教育]

日本文化発信ボランティア(J-Cat)の皆さんとお話する機会がありました。

「文化」そして「日本語教育」。
考えることの多いテーマです。

文化について、自分自身の振り返りとしてつけてみると、こんな感じです。


・ドイツの時
「文化を教える」ことに直面する。
ステレオタイプを教えているんじゃないか、それからネイティブである自分が宣伝材料として使われているんじゃないかと悩んだのはちょうどこの頃。
その反面、ドイツ社会にどっぷり浸かって、「ステレオタイプでもいい、経験するだけでも豊かな経験なんじゃないか」など、結構ゆらゆら。
「中国と日本は同じ」と思っている学習者に対し、「中国と日本は違う」と当然言わなければならないけれど、何が違うか本当には説明できない自分を感じて、「いつか中国に行ってみたい」とも思いました。
日本好きになったドイツ人から「日本は<中国と違って>素敵だとわかった」というのを聞いて考えさせられもしました。
日本語教育と文化のバランスも悩みでした。
このようなモロモロが今につながってます。
わりと、しつこいんですねえ。
この時のことは体験報告にまとめて紀要に載せました。


・中国の時
でもって、願いかなって?中国へ。
語学を教える合間を縫って、一か月に一度同僚たちと「日本語コーナー(日語角)」というオープンスペースを運営してました。
内容は、半分は日本紹介+文化体験、半分は日本語自由会話。
自分の所属校の生徒より一般の人の参加が多く、おもしろい経験でした。まあ、学校宣伝も兼ねた活動ではあったのですが、今となってはその場をかりて貴重な経験ができたと思っています。
反日感情も根強い国なので気をつかうことも多くありました。これは今も解決できていない課題です。
それから、日本語教育と文化のバランスもあいかわらず悩みでした。
ちょうどこの頃、同僚ばななんさんが日本事情教育の論文準備で中国を訪れてくれました。一緒にインタビューにもまわりました。
「日本語コーナー」のことは、派遣の事前研修でもポスター発表をしました。


・「考える日本語教師の会」にてひとまとめする
ステレオタイプにならないように、今の姿も伝えること。いろんな姿を伝えること。
私たちが「万国共通」と思っているようなことの中にも文化がある。
文化を見る時にかかってくるバイヤスをどう処理していくか。
なんていう話でした(いやはや、とほほ)。
自分の中でもまだモヤモヤしていることはたくさんでしたが、ひとつの報告として発表しました。
後半はグループワークで、どんな文化紹介ができるかをグループで出してもらいました。このへん、今やってることと大して変わりませんな。グループワークはうまくいくと雰囲気が生き生きするので好きなのです。
「教養として日本文化を教えることの必要性」も意見として出ました。


・今(ハンガリー)
CEFR真っただ中のヨーロッパへぽこんと落ちました。
CEFR準拠の教科書作成のお手伝いもしているので、異文化理解に直面しました。
職場で「異文化理解研修」も2回実施されました。(続編アリ??)
他の方の担当で、異文化理解ワークショップも数回実施。
というわけで、文化に直面する毎日です。
日本語教育と文化が、私の中で形となってきた貴重な期間です。


こういうと、何だかどんどん進化しているように見えますが、必ずしもそういうわけではなく、この日も
「折り紙体験はよくおこなわれるけど、日本では折り紙は子どものものじゃないか・・・」
という言葉に、忘れそうになっていた気持ちを思い出したりしました。
こういう違和感や悩みは、やはりいつも思い出してなければいけないなと思います。



膨大な業務に押されて今ひとつ進展していませんが、いつかやってみたいのは、

・ステレオタイプをとらえなおしていくようなクラスの運営
・反日感情の強い国での異文化理解 →輪郭はまだまだこれから。
・「やめてしまっても残るもの」: これはハンガリー語が自由にならない私では限界があります。いつか、ドイツの子たちに聞いてみるなり、通訳を立ててハンガリーや中国の学生に聞いてみるなりしたいと思っています。
・イベントとコースの有機的な結びつき。特に、入門段階・初級段階の学習者に関して。
・異文化を知ることが自分自身の振り返りにどう関わっていくか。


いろいろありましたが、「日本語教育と文化のバランス」でぐちゃぐちゃ一人で考えてたこと(うう・・・もうずいぶん時間がたつのですねえ)が、やはり自分の財産になってるのかなあと思います。

さらに言えば、日本語教育を始める以前に興味を持っていたキーワードは、「イメージ」「差別」「ステレオタイプ」でした。
「事実」もさることながら、「事実」を人がどう解釈するか、物語をつくっていくかという、その生産過程が気になってました。
修論では、むかしむかしの某国の某新聞で、某民族の民族学校に対してどのような評価を下していたかをゴソゴソまとめていたりもしていました。
たいした内容にはならないままでしたが、やっぱり日本語教育をやっていても同じ関心に入っていくのかなと思います。



実は「インタビュー」も関心テーマだったのです。まさかこれがOPIに・・・^^

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MIKI

こんにちは~。なるほど~と思いながら、楽しく読ませていただきました。私も中国の超ド田舎の高校で日本語を教えていた時、卒業後の彼らに、何を残せるかなあ・・とよく考えていました。そして、今、日本の中学校で英語を教えていますが、私が中国と台湾にいたことを話すと、学生達は「中国人って犬食べるんやろ?!」と言ってました。これもまさに文化の違いですよね。私も中国で犬鍋を食べましたが、それは食用の犬であって、日本人が牛肉や豚肉と食べていることと同じなのに、犬を食べない文化圏の人からみれば、残酷と思ってしまうようです。だから私は学生達に、お刺身は食べるかと聞き、アメリカ人同僚が日本で生け作りを見たとき、残酷でかわいそうだと言ったこと、ちりめんじゃこを見て、こんなにたくさんの命を一人が食べるなんてと、日本人は残酷だと言ったこと、その時、私が「アメリカ人も牛を殺してステーキ食べてるから同じだよ」と言ったら、「何十人で一つの命を食べるのに、あなたは今日の朝ご飯で何十という命を一人で食べた」と言われたこと。そしてちりめんじゃこはこれ以上大きくならないこと・・などなどを、朝から話したことを学生達に伝えると、皆納得してくれていました。食べない文化圏の人が食べる文化圏の人を理解することも、異文化理解につながると思います。あ、なんだか、長くなってしまってすみません。ユニさんの修論内容にも興味大です。またお会いして、いろいろ話したいです!
by MIKI (2010-02-24 09:04) 

juni

>MIKI様、
うんうん、文化って考えなければならないこと、考えたいことがたくさんですよね。
こちらの言語教育はCEFR渦巻いてまして、最初「異文化理解」というのを聞いたとき、「理想主義的だなあ」という気がしたのですが、「異文化を考えることは自分を考えること」それから「理解したふりをすると終わってしまう、理解したと思ってはいけない」「対話は継続しつづける」というようなコンセプトに行きついたとき、非常に印象深く感じたのを覚えています。
その反面、本当に根源的な差別的感情や嫌悪感、それから戦争などに直面したとき、「対話」という言葉に感じる空しさも、常に思い出していかなければならないんだと思います。
ハンガリーでも、つい近くで最近ひどい戦争がありましたし、ジプシーに対する発言はよく聞きます。

by juni (2010-02-27 22:19) 

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