SSブログ

「時分の花」と教師 [いろんなことから考える]

年末年始に読んでいた記事、その二としては、教育論として世阿弥の「風姿花伝」をとらえたものがあります。http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/books/book007.htm
セイジ先生のブログからたどっていったものです。

世阿弥の解釈については私は知識が足りないのであまり言うべきものは持ちませんが、能役者を教師にたとえて、

・若い教師は「時分の花」を持っている。ベテランになるにつれてそれは失われる。

・ベテランはわかりやすい授業はできるかもしれないが、生徒に必ずしも水を飲ませられるわけではない。若い先生は生徒に水を飲ませることができる。

という部分は、論法の異論反論はあるかもしれませんが、ベテランと呼ばれるようになった日本語教師が感じる部分に確かにあてはまるものだと思います。

これを読んでくださっているのは殆どがネイティブの日本語教育関係者ではないかと思いますが、若いネイティブの先生が、学習者にとって唯一の「その国の知り合い」で、一緒に友達のようにわいわい時間を過ごせて、その先生のことが大好きで学習者は一生懸命勉強して、信頼関係が生まれてくる。

そういう付き合い方は、いつか学習者との年齢差が開いていくにつれ、教師が年を重ねるにつれ、自然と変わっていかざるを得ない。

「新人の頃は、あんなに授業に一生懸命だったのに」
「学生が可愛くてたまらなかった」
「今、学生に対するエネルギーがどんどん落ちていってしまっている」
いや、異文化に対するエネルギーだって、人生全てに対するエネルギーだって、落ちていってしまっているかもしれません。

私自身も小学校の時に、当時おそらく50代のベテランの先生のことが大好きでしたから、実は学習者から見ると「若ければいい」とか、そういう簡単なものではないでしょう。学習者って、絶対にそこまでばかじゃない。若くて傲慢な先生より、真摯なベテランを信頼するもの。そういう力は、絶対に学習者にはある。
ただ、ベテランになるにつれ、教師が自分の中で「落ちていく何か」「足りなくなっていく何か」を感じてもどかしくなっていくのは十分考えられることです。

個人的な体験を思い出すと、私自身は「若い先生」と言われる時期も終わる頃ににこの仕事を始めてしまい、一緒にわいわい騒ぐ対象とはもう最初から見られていなくて、でも、日本語学習に人生をかけた東アジアの学習者たちに信頼されるほどの貫禄もない、非常に中途半端な位置にいました。
その中で、「40歳ぐらいになれば周囲の先生方にようになれるのかなあ」などと漠然と思ったりしていたのですが、年齢が到達したからといってそんなことが自動的についてくるのはありえないというのは、現時点で痛感しているところです。
その年齢になった時、「別の技能をつける」「活動の幅を広げる」方向にいくというのもひとつの方法でしょうし、また、立場の変化は年齢とともに必然的に求められるものでもあるのですが、そうすることが、原点であるところの「教える」部分から自覚しないまま意識をそらす材料になってしまうことだけは避けねば、と思っています。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。