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地震のこと [いろんなことから考える]

3月11日、地震が起こった日、私はまだハンガリーにいました。
そして、次の日から10日近く日本にいました。
この時期日本に帰るのは、以前から決まっていたことです。
帰ろうかどうしようか、あまりのことに混乱してしまい、それでも帰ることにしました。もし行き先が自分の国でなかったら、とりやめていたかもしれません。

職場での衛星放送、自宅でCNNとBBC、それからNHKがustream配信を始めたことがわかったのでそれもずっと。
荷造りをしながら一睡もできませんでした。実家の広島は震源地から遠いので問題はないとわかっていましたが、自分の家族や友人がどうこういう以前に、津波や火事の映像に茫然とするばかりでした。
そうしているうちにTwitterで、電気、電気、という言葉が流れ始めたように記憶します。が、何のことだか、実はピンときませんでした。

本当に眠れないまま、空港へ行きました。
経由地のウィーンでたまたま話したお店の人は、私が日本人だとわかると、とても優しく、でもひっそりとした声のかけ方をしてくれました。
通常成田行きの便はシベリアを通るのですが、その時はロシアから南下しました。北京、ソウルを経て西日本へ。中国地方、それから長野の山々を見、福島あたりで迂回して成田へ入るという見たことのないルートで、素人考えですが、飛行機は既に関空に降りることも想定していたのかもしれません。
太平洋と海岸が見えた時、誰もがじっと飛行機の中から海岸線を見つめていました。

日曜日の成田、そして関東は平和でした。ようやく、交通も回復しはじめた最初の日だったと思います。
お店の人と話すと、
「家が揺れた時、おばあちゃんがこんなひどい揺れは経験したことがないと言った」
「埼玉は震源地になることは滅多にないので、ここがこんなに揺れるなら震源地はどんなにひどいだろうかと思った」
と言っていました。
部屋ではずっとテレビを見ていました。原発爆発のニュースが入ってきました。

次の日からは余震に加えて、停電、断水、食料や生活必需品の調達不足が始まりました。交通手段も混乱していました。もちろん街は一見したところ平和で、それなりに仕事もできる環境ではあったのですが、何となく張りつめた雰囲気が漂っていました。閉まっている店も多くありました。そんな時だからこそ、人と一緒にいることの大切さを感じました。

帰りの便は成田発着がとりやめになってので、関空からとなりました。
そうして私は今またブダペストにいます。

Twitterを見ているといろいろな呟きが流れてきます。
余震のこと、地下鉄に閉じ込められたこと、神経が過敏になってすぐに反応してしまう辛さ、水がない。いろんな言葉が聞こえてきます。
私は地震のはじまりはヨーロッパにいて、それから関東へ、関西を経てまたヨーロッパに戻りました。その中で、自分のまわりの景色や地震に対する感覚が、どんどん変わっていくのを感じました。
計画停電、水も止まる、PCも使えなくなる、急いで携帯を充電する、夜も余震が怖くてゆっくりシャワーも浴びられない、静岡が揺れた、まさか西まで、ああトイレットペーパーがない、ATMが動いていない、それから大規模停電の恐れ、寒い、毛布をかぶる、でも、被災地はこんなもんじゃないんだ。
そしてまた、関東で直接地震を経験した人たちの不安感が、後から日本に入った自分とは明らかに違っているのも感じました。

だから、「わかる」なんて言ってはいけないのだと思いました。
「その時日本にいた、だからわかる」という言い方もやはりできないと。
私たちはわからない。だけど、その時、「わからない」私たちの一人一人が、世界観が壊されるほどのショックを受けた。そのことは言えるのだと思います。

それから、もうひとつ。
今回はいろいろと守られた中での滞在でした。そんな自分の立場をありがたくももどかしくも感じましたが、安心感もありましたし、生活も維持することができました。多分それは受け入れる側からすると、大変なことだったのではないかと思います。
最近もエジプトやリビアの問題がありますが、そんな時、私たちは国外退避ができる。安全なところへ行ける。そういう時、後ろめたさを感じることはないのかと時々思うことがありました。

だけど、退避することは恥ずかしいことではない、と思います。
もちろん現地に根付いた人や、逃げたくても逃げられない人もいる中で、こういった言い方をすると誤解が起こってしまうかもしれませんし、もちろん避難というのは最後の手段だとも思います。
でも、本当に極限の状態においては、現地に根付いてもいない私たちはやはり逃げることは責められない。何故なら、足手まといになる恐れもあるから。必死の生活の中で、余計な混乱やストレスの元となってしまうから。きちんと見つめて、逃げられるならしっかりと逃げて、そしてそこで何かできることを考えるのは恥ずかしいことではない、と。

ハンガリーでも、日本のこと、震災のことを考える人に会いました。
これだけはちゃんとしなければ、と思って、上級クラスの授業では受講生に震災のことを冒頭で話しました。
大学時代、北関東や東北、北陸の友人が多かったのですが、東北の歴史の深さ、自然と街の美しさ、そしてお米や魚がとても美味しかったこと。そういうことも、もっともっとみんなに知ってもらえたらと思っています。
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コメント 2

あんちぽ

あ"~なんだー(w
日本にいたのか~。
一瞬でも会いたかったなー。
おいしいごはんご馳走してあげたのに~。
ま、いっか。
また来てね!
by あんちぽ (2011-03-23 22:39) 

juni

> あんちぽさま、

そうなんですよー。帰ってたのです。
でもずっとこもっていたので、地震がなくても会うのは難しかったかな??
おいしいご飯、かなり期待。
その時はよろしくお願いします。
by juni (2011-03-24 06:56) 

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